第三十三回 「イワシは貧乏人の食い物?干鰯場の繁栄」

わたくし其角主人が子供の頃、イワシはよく食卓に上る魚でした。今でもイワシは大好きですが、海流の変化とかでイワシは以前ほど捕れなくなって、結構高いですよね。しかし、わたしが子供の頃はイワシはとても安く、「イワシは貧乏人の食い物といって、江戸っ子はイワシを食わなかったもんだ」なんてよく聞かされました。しかしですね、いくらイワシが安い庶民の魚だからって、「貧乏人の食い物」とはひどい言い様です。同じく庶民の魚だったサンマは「秋の味覚」だし、イワシと同じくらい庶民の魚だったアジの干物(いやあ、アジの干物は子供の頃に一生分食べた感じですので、私などはもうあまり食べたくないくらいのものです)なども、「貧乏人の食べ物」なんて言われることはありません。なぜイワシだけが「貧乏人の食い物」なんでしょう。これにはある歴史があります。それも深川にも深いかかわりのある歴史が。今回はそれをご紹介しましょう。

第十一回「菊五郎の碑と玉垣」でも紹介しましたが、深川には「干鰯場(ほしかば)」と呼ばれる干したイワシを取引する河岸がいくつもありました。イワシは主に銚子から運ばれ、現在の冬木町あたりにあった「江川場」白河辺りにあった「銚子場」佐賀町辺りにあった「永代場」といった干鰯場でさかんに取引されていました。この干したイワシ、実は食用ではなく、畑の肥料として使われていたのです。前にも書きましたが、ちょっとオドロキですよね。江戸時代、イワシの干したものが畑の肥料に使われていたなんて。わたしたちのイメージでは、江戸時代の畑の肥料といえばまず、下肥えであり、まああとは腐葉土くらいでしょうか。しかし、イワシを肥料として、なおかつ河岸で流通するということは、農家がお金を払って買っていたわけですから、これは驚きです。現に、干鰯はお金を払って買う貴重な肥料ですから「金肥え」と呼ばれていたそうです。この干鰯、明治時代くらいまで農家で使われていたようですが、大正時代、、ロシアなどからもっと安い大豆粕肥料が入ってきたことで、それに押されてすたれ、昭和に入ってからの化学肥料の登場で消滅したそうです。

これで、「イワシは貧乏人の食い物」と呼ばれた謎が解けます。イワシは肥料として使われていた、それも、わたしたちの深川の町に、肥料としてのイワシである干鰯を取引する河岸が、それも明治からたぶん大正時代くらいまであったわけですから、深川っ子がイワシを食用として考えなかったのはわかります。「肥料であるイワシを食べる貧乏人」というイメージだったんでしょうね。私の育った昭和40年代くらいには、そういうイメージは既に消え、深川っ子でも普通にイワシを食べておりましたが、「イワシは貧乏人の食い物」という言葉だけ、言い伝えのように残されていた、ということでしょう。

永昌五社稲荷の社殿。こぢんまりして見逃してしまいそうです。

深川の干鰯場の繁栄は結構なものであったようで、富岡八幡宮や深川不動尊に、干鰯場の人たちによる寄贈の記録がいくつかあります。明治時代の不動尊の玉垣に残るものは、第十一回でご紹介しましたが、ほかにも、江戸時代の干鰯場「江川場」の人たちによる寄贈の記録が富岡八幡宮に残されています。

「横綱力士碑」から七渡弁天に抜ける途中に、「永昌五社稲荷」というちいさなお稲荷さんがあります。これは、干鰯場「江川場」のあった冬木町のそばの旧「和倉橋」(第三十一回の小津安二郎の回で紹介しました)のあたりの深川和倉町にもともと建てられていたものを、明治時代に八幡宮へ移築したものだそうです。お社自体は江戸のものではないですが、鳥居、狛犬、灯籠などが、江戸時代のものです。「江川場売り手」「江川場買い手」の人たちの寄贈で、このお稲荷さん自体が江川場の守り神で、江川場の人たちの寄贈によるものなのでしょう。その後、明治時代に、多分江川場の衰退に伴って、八幡宮の今の場所に移されたそうです。

お稲荷さんの参道。途中に石の鳥居があるのがお分かりでしょうか。これが昭和六年のもの。赤いのは昭和52年と平成のものです

ちょっと笑える顔つきの狛犬。これも江戸時代のもの。この場所にはほかにも狛犬などの石造のものがありますが、みんな江戸時代のものです。石は頑丈ですねぇ。

 

この灯籠も「江川場」の皆さんによる寄贈。もちろん江戸時代のもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狛犬の足元の寄贈者名簿。「江川場」の売り手の皆さんによる寄贈だったんですねぇ。どんな人たちだったんでしょう。

このお稲荷さんのもともとの規模は、鳥居や狛犬、灯籠といったものからみて、結構それなりのものだったんじゃないでしょうかね。でも決して豪華でも壮大でもありませんから、干鰯場江川場、というのは、魚河岸みたいに大繁栄していた、ということでもないようです。ま、扱うのが肥料ですからね、そうでしょう。でも、八幡宮でも江戸から残っているものは、このお稲荷さんの一角にある狛犬とか石灯籠とか水盤とかしかないですから、貴重なものです。どれもひとつひとつ、味があります。上の写真の狛犬なんて、ユーモラスでかわいいでしょう?

昭和の時代には、干鰯が肥料として使われることは少なくなっていたようですし、干鰯場がまだ存在していたかどうか不明ですが、上の写真にあるように、昭和六年に「深川肥料商有志」によって、このお稲荷さんに新たに鳥居が寄贈されています。干鰯場の人たち、というか扱うものを干鰯から肥料全般に変えて商売を続けた人たちにとって、このお稲荷さんは氏神、守り本尊としての信仰を集めていたことがわかります。つまり、江戸時代からずっと、昭和に至るまで、干鰯、肥料を扱う商人たちに、この「永昌五社稲荷」は信仰を集めていた、ということです。たいしたもんですよね、これって。そういえば、第三十一回でご紹介しましたが、小津安二郎は、深川二丁目の肥料問屋の息子だったそうですから、小津の生家も、この寄贈者の中の一人だったかもしれません。

途中の石の鳥居の碑文。干鰯場はなくなっても「肥料商」たちは、このお稲荷さんの存在を忘れなかったんですね。

なおかつ、上の写真の赤い、木の鳥居は、昭和52年に作られ、その後、平成16年に、再び、「深川肥料商有志」によって作り足されています。つまり、深川にはまだ、干鰯場の流れを汲む「肥料商」の人たちがいる、ってことですよね。しかし、いくら江戸時代から続く肥料商とはいえ、たぶんこの人たちにとっても、自分たちのもともとの氏神が、この「永昌五社稲荷」だということは、とっくに忘れられていたんじゃないでしょうかね。それが何らかのきっかけでこれが「深川肥料商有志」の氏神であることが「発見」され、せっかくだから鳥居の寄進をしようじゃないか、ということになったんでしょう。そこにいたる流れの中で、どんな話があったんでしょう、想像すると楽しいですね。

 

稲荷社前の柱だけ残った欠け鳥居。嘉永元年、とあります。明治時代にこの場所に移築されたものでしょう。

 

 

深川の干鰯場、三ヶ所もあったくらいですから、深川の経済や文化にかなりの大きな貢献をしていたのではないかと思われますが、現在では完全に忘れられています。時代小説にもあまり出てこないようです。粋じゃない感じがするからですかね、肥料の取引なんて。でも、当時の深川を考える上で、干鰯場の存在は絶対欠かせないでしょう。その意味でも、八幡宮を訪れたら、この永昌五社稲荷にもぜひ足を運んでください。干鰯場の繁栄の一端を垣間見れると思いますよ。

(この記事は2009年に書かれたものです)

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