第四十一回 「昭和15年の尾上菊五郎の碑」

かつて、お不動様の向かって右端の場所に存在した「五世尾上菊五郎の碑」。桜の木と一緒に、良い風情でした。なくなってしまったのはやっぱり結構残念ですが、史跡としては価値がないので、仕方ないですね。

「深川のススメ」第10回と第11回で取り上げた「五世尾上菊五郎の碑」。左の写真です。数年前まで深川不動尊の向かって右端に存在した、幕末から明治にかけての名優、五代目尾上菊五郎を顕彰した碑です。その際には、この菊五郎の碑がなぜここに存在するのか、その歴史などは、まったくわかりませんでした。今回、お不動様に保存されていた貴重な写真をいただき、かつての尾上菊五郎の碑の真の姿を知ることが出来ました。今まで知らなかった、驚きの菊五郎の碑の真実です。

 

 

昭和15年当時の「五世尾上菊五郎の碑」

この写真は、お不動様に保存されていた、昭和15年当時の尾上菊五郎の碑の写真です。左上の写真と見比べてみると一目瞭然、昭和15年当時の尾上菊五郎の碑は、碑ではなく、銅像だったんですね。戦後残されたのは、単なる銅像の台座でしかなかった、のです。大変な驚きです。

深川不動堂に建立されたのは、菊五郎の碑ではなく、菊五郎の立派な銅像。役者姿ではなく、羽織袴に身を包んだ威厳のある姿の菊五郎。戦後残された台座部分だけでも結構立派ですから、その当時、この銅像は、周囲を睥睨する感じでそびえ立っていたのでしょうね。不動尊の塀を越えて、立ち尽くす菊五郎の姿は、不動尊に参拝に訪れた人はもとより、近隣の住民にとっても、強烈な存在だったに違いありません。前にも書きましたが、成田屋ゆかりの成田山の東京別院に、音羽屋の銅像がにらみを利かせている趣向は、菊五郎ファンにはたまらなく痛快だったんじゃないでしょうか。

写真の存在によって、菊五郎の碑の本来の姿はわかりましたが、銅像建立の由来などはやっぱりわかりません。当時の熱狂ぶりなんかがわかると楽しいんですけどね。で、わかっているのは、戦時中の軍部による銅の供出命令によって、菊五郎の碑は持ち去られ、溶かされて戦争の道具となったのです。当時存在していた、不動尊の梵鐘も、供出されたようです(なんせ不動尊に近接したわが母校、数矢小学校の校歌には、「空に高鳴る不動の鐘よ」という歌詞がありますから)。まったくもって、戦争は駄目です。悲惨なだけでなく、無粋極まりない。

こうして、菊五郎の銅像がなくなってしまった後、たぶん戦後、銅像の立っていた部分に扇型のオブジェが置かれ、菊五郎の銅像は台座部分だけ菊五郎の碑として残された、というわけです。戦後の混乱の中、また戦後、歌舞伎が厳しい冬の時代に入ったこともあり、名優五代目尾上菊五郎の銅像を再建する余裕はなく、いつのまにかこの銅像のことも忘れられてしまったようです。私自身、ここに菊五郎の銅像があったという話は、この写真を見るまで誰からも聞いたことがないですから、戦後ずっと、菊五郎の銅像は忘却のかなたにあった、ということなのでしょう。

でも惜しいな。ここに菊五郎の銅像が再建され、その偉容がそびえ立てば、かならず深川名物になったのに。その後、深川不動尊は、新本堂建立を中心とした平成の大改造が行われました。この菊五郎の碑は、もともと銅像の台座でしかなかったわけですから、撤去され、今はありません。この「深川のススメ」で紹介した「燈明台」は隣接した深川公園に移転され、志満づさくらの碑も撤去され、そのほかの石のモニュメントも駐車場のほうに移されました。深川不動尊は、歴史のおもかげあふれた、効率悪いごちゃごちゃしたお寺から、現代的で機能的なお寺へと生まれ変わりました。新本堂の斬新にして堂々たる建築は、その象徴です。この写真を私に提供して下すったのは、この新本堂を設計したかたです。お不動様には、まだたまだ貴重な写真があるみたいなので、いろいろご提供していただくようお願いしておりますので、今後また新しい写真があったらご紹介します。

斬新にして堂々と美しい新本堂。びっしり刻まれている梵字は、不動明王の真言です。

旧本堂と、新本堂。対照的なただずまい。

深川公園に移された「燈明台」。第12回で書いていますとおり、明治時代の物です。

(この記事は2013年に書かれたものです)

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