第五回 七渡弁天と弁天池

七渡弁天社。小さくとも立派な社殿です。

横綱力士碑の横を抜けると、松尾芭蕉を祭ったという「花本社」(どれがそれだか実はよくわからない)などを抜けて、ほんの小さな池に出ます。その池にあるの小さなお社が「七渡弁天社」。なんでも、江戸時代、このあたりの漁師が(江戸時代初期には、すぐそばが海だったんですね)航海の安全を祈って建立したのが始まりだそうで、富岡八幡宮そのものよりも歴史は古く、地主神だそうです。弁天さま、というと「弁財天」というくらいで、鎌倉の「銭洗弁天」はじめ蓄財の神様、という場合が多いのですが、ここの弁天様は、航海安全が始まりというわけで、お金には縁がないようです。

若林さん、あなたはすごい!!

で、左の2枚目の写真は、七渡弁天社の右横にあった板。世田谷区深沢七丁目の若林成和さん、あなたはすごい。一千万円ですよ、ぽーんと一千万円。一千万円くらいあると、社殿の建て替えくらい出来るんですかねえ。それにしても不思議なのは、一千万円も奉納したのに、板切れ一枚に書いてあるだけってこと。普通これだけ寄付すれば、石にでっかく刻まれるでしょう。若林さん、どうなんですか?

3枚めの写真は、この弁天社の鳥居の裏側。鳥居のもう片一方には「昭和九年建立」とあります。戦前の魚問屋の芝専号の「芝山専蔵」さんが奉納した鳥居なんですね。

鳥居のもう片方には、昭和9年建立とあります。魚河岸の芝専さん、太っ腹です。

自分の名前を店の名前にするってことは、専蔵さん、創業者だったんですね。多分築地の魚河岸でしょう。それで成功して鳥居を建立するまでになった。意気揚々だったろうなあ、其のころの専蔵さん。けっこう遊んでたりしたんでしょうね、其角主人はそういうことを空想するのが大好きで、こういう碑文にはすぐに目が行ってしまいます。

ちなみに、この鳥居は東京大空襲を生き残った数少ない証人でもあるのです。東京大空襲でこのあたりはほとんど焼き尽くされ、焼け残った建造物、というものはなかなか貴重です。東京大空襲における深川界隈の被害はほんとうにひどいものだったようです。うちにいらっしゃるお客様にも、戦前はこのあたりに住んでいたけれど、大空襲で焼け出され、それ以来引っ越されてしまい、だから深川は懐かしい、この辺もずいぶん変わりましたねえ、と昨日のことのようにおっしゃるお客様が、じつにしばしばいらっしゃいます。忘れちゃいけない歴史ですよね。

 

左の写真は「弁天池」とみんなが呼んでいる、弁天社のまわりの小さな池です。ここの名物はすばり「亀」。いやあ、わたしも子供のころ、縁日の夜店で買ったミドリガメが結局面倒見きれなくなって、ここに放したことが一度ならずあります。何十年も、いろんな子供がそうやって亀をこの池に放し続けた結果、ここは亀天国となり、沢山の大きなミドリガメが甲羅干しをしたり泳いだりしてる姿がこの池の名物となりました。ただね、亀の数は、子供たちが放したであろう数ほどには増えていない。小さい池ですから、生き残れる数は限られているのです。だから、ほーらそこの男の子!! 飼うのめんどくさくなったからってそのミドリガメ弁天池に放しちゃダメですよ。新規参入が生き残るのが難しいのは、人間社会も弁天池も同じなんだから。

(この記事は2006年に書かれたものです)

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