第6回・深川八幡祭②お神輿の掛け声「ワッショイ」VS「オイサーコリャサー」
深川の神輿のもう一つの掛け声「オイサーコリャサー」
前回、東京のお祭りのお神輿の掛け声は、今や東京中が三社祭の「ソイヤ」に浸食されつつあり、昭和の時代には深川もそうなりかかったけど、現在は深川はかたくなに「ワッショイ」という掛け声を「厳守」している、と書きました。
しかし、昭和から平成にかけて、深川のお神輿の掛け声を「ワッショイ」で統一しようと躍起になっているとき、「いやあ、俺たちはワッショイなんかじゃ担がない、俺たちの町内の神輿の掛け声は、親の代からオイサーコリャサー、だ」とかたくなに「ワッショイ」化を拒絶し、独自の「オイサーコリャサー」の掛け声で担ぎ続けた人たちがいました。深浜、牡丹町、越中島などのかなり広い範囲の町内の人たちです。今でもこの「オイサーコリャサー」の掛け声は、深川八幡祭のお神輿の掛け声として健在です。「ワッショイ」派の町内の人たちからすると「なんで?」な感じで思われていたりします。
がしかし、其角主人は推測いたしますに、実はこの「オイサーコリャサー」こそ、深川八幡祭のオリジナルの、最も古くからある掛け声なんじゃないか?
「ワッショイ」は実は神田明神祭の掛け声
「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよぉっ」ってなぐらいのもので、江戸っ子の本場は神田です。神田に三代住まないと江戸っ子とは言わない、などと神田の人はエラソーに言ってたものです。だから、もともと江戸のお祭りと言えば「神田明神祭」だったのです。神田の格の高さは完全に別格で、あとの回で触れますが、深川や浅草には「神田」を意識した習慣や言葉がいろいろあります。
で、神田明神祭のお神輿の掛け声が「ワッショイ」だった。神田以外の、例えば「赤坂山王祭」には独特の神輿の掛け声があったようですし、それぞれのお祭りで独特の神輿の掛け声があったんじゃないか、と思われます。しかし、明治時代以降の東京の都市化の影響か、東京のお祭りの神輿の掛け声が、一番格が高くて「粋だ」と思われていた神田の掛け声「ワッショイ」にどんどん浸食されていったのではないか。現在、東京のお祭りの神輿の掛け声が、浅草三社祭の「ソイヤ」に浸食されつつあるのを考えれば、また、それは昭和の深川ですらすでに起こっていた、ということも併せて考えれば、明治から大正、昭和初期にかけて、東京中のお祭りの掛け声が、神田の「ワッショイ」になってしまった、というのは、普通に想像出来ますよね。その「ワッショイ」が、神田から三社祭への「お祭り」勢力図の変化に伴って、今は「ワッショイ」から「ソイヤ」に移行している、ということなんじゃないでしょうか。
「オイサーコリャサー」は「小田原担ぎ」
「ワッショイ」がもともと「神田明神祭」の掛け声だとすると、深川に保持された「オイサーコリャサー」こそ、実は深川八幡祭のオリジナルの掛け声なのではないか、という私の推測はだんだん真実味を帯びてきます。でね、調べてみるとこの「オイサーコリャサー」という掛け声、実は「小田原担ぎ」という小田原のお祭りの掛け声なのです。
上の写真が小田原の松原神社のお祭りのお神輿。このお祭りはもともと小田原の漁師たちの勇壮なお祭りで、「オイサーコリャサー」の掛け声は、お神輿を走るような速さで運ぶ掛け声なのだそうです。かつて深川の神輿も「深川の走り神輿」と呼ばれた、わけですから、ビンゴです。そして、深浜、牡丹町、越中島界隈は、昔は海辺で漁師町だったのですから、ますますビンゴです。「オイサーコリャサー」の掛け声は、小田原のお祭りからやってきた、という可能性大です。
深川が大発展するのは文化文政期。元禄時代あたりの深川は、単なる海辺の漁師町だった、わけです。その漁師町の中心だったのが深浜、牡丹、越中島あたりで、このあたりの漁師たちが、深川の一番古い住民だったわけです。で、この人たちは、もともと小田原から移住してきた人たちだったのではないか。そして自分たちの故郷小田原の勇壮なお神輿のお祭りを深川に持ち込んだのではなかろうか。「オイサーコリャサー」の掛け声とともに。そしてこのお祭りが、「深川八幡祭」の元祖なのではないか。そしてその伝統がいまでも受け継がれているのではないか。推測は膨らみます。
そして、深川が発展していくにつれ、漁師以外の住民が増えてくる。木場の材木問屋街などが出来てくる。もともと、江戸で使われた材木は、北関東から川に筏を組んで流されて運ばれてきた。舟に材木を積んで海で運ぶより、はるかにそちらのほうが効率がいいですから。となると、木場の人の多くは、北関東人だったのではないでしょうか。そもそも江戸の文化のおおもとは北関東の文化で、江戸の味覚が濃い味で、そばやうどんのおつゆが真っ黒なのも、北関東から入ってきたものです。
となると、小田原から来た昔ながらの漁師と、北関東出身の木場の人たちには軋轢があったかも、なんて想像も成り立ちます。「江戸の粋」を自任する木場の人たちが、漁師たちの「田舎くさい」「オイサーコリャサー」の掛け声に反発して、江戸時代からすでに、「ワッショイ」を採用していたかも、なんて考えるのも楽しいですね。まあすべては想像ですが。
ま、いずれにせよ、はっきりとしたことはわかりません。でも、こうやって「オイサーコリャサー」の掛け声を探っていくだけでも、深川の成り立ち、この深川八幡祭の成り立ちについて、いろいろ考えることが出てきます。そこが楽しいところで、だからこうして「深川のススメ」を書き続けていけるのです。