第四回「大関力士碑」と「巨人力士碑」

大鳥居の横に建っている「大関力士碑」

富岡八幡宮の正面大鳥居の横にあるのが「大関力士碑」と「巨人力士碑」。巨人力士碑は、前回紹介した「横綱力士碑」のところにあったのを移したものです。 前回も触れましたが、相撲の最高位はもともと「大関」。横綱が最高位になるのはそのずっと後ですから、「横綱力士碑」よりもこの「大関力士碑」のほうが実は歴史は古く、碑文には「明治32年10月建立」とあります(一番上の写真の「大関力士碑」の右隣に陰になっているのがもともとの「大関力士碑」です。中央の「大関力士碑」は後に建てられたものです)。が、その後、横綱力士碑が出来て影が薄くなってしまったようで、その後は、横綱にならなかった(なれなかった)「名大関」の名前が細々と刻まれているだけで、迫力不足おびただしくなってしまいました。がしかし、建てられたときはかなり話題性のある石碑だったようで、石碑に刻まれた寄贈者の名前の中に「市川団十郎」の名前があります。

九代目市川団十郎の名前が見えます。

明治32年当時ですと名優のほまれ高い九代目団十郎です。これから徐々に紹介していきますが、当時の歌舞伎俳優というものは神社仏閣への寄贈をよくしていたようで、深川の神社仏閣にもいろいろな歌舞伎俳優の名前が寄贈者として刻まれています。しかしそのなかでも「九代目団十郎」は別格といえます。この「大関力士碑」への当時の注目度の高さがうかがえます。

さて、この「大関力士碑」の隣にあるのが「巨人力士碑」(同じく一番上の写真の大関力士碑の左隣にあるのが古い「巨人力士碑」で白くて丸いのは新しく作られたものです)。歴代の相撲取りの中で飛びぬけて身長の高かった「巨人力士」の碑なのですが、これがすごい。

この江戸時代の「釈迦嶽」なる力士は身長2m26cm体重172kgでか過ぎないかあ。白い丸い「巨人力士碑」にはそのほかの力士も含めた彼ら巨人の「実寸大」の身長が刻まれていますがみんなあきれるほどでかい。有り得ないでしょう、という大きさです。だってこれだけ平均身長の伸びた現代にもこんな巨人は出現しませんから、成人男子の平均身長が1m60cmそこそこだった江戸時代に、こんな巨人が出てくることは本当に不思議です。理由のひとつとして考えられるのは、「成長ホルモン異常」でしょう。

巨人力士碑の新しいほう。揮毫した入江相政ってひと、昭和天皇の侍従だった人?かな。

昔は、栄養状態の悪さなどが原因で、成長ホルモンのバランスが悪くなりやすく、成長ホルモンが抑制されないまま巨人化する人が多かったのではないか、と思われます。現代では栄養状態がよくなったおかげで、成長ホルモンのバランスが良くなって巨人は出なくなった、のではないでしょうか。それとも成長ホルモン異常に対する効果的な治療が出来るようになったとか。かつての巨人力士たちは、この釈迦嶽のように若死にしたりする例が多かったようですから、やはり、なんらかの異常で巨人化したと考えられる、と思います。

話は逸れますが、巨人に対して「小人」というのもいますよね。「小人」とは「小人症」という遺伝的な因子を持っている人たちです。日本では、彼らが偏見のせいで子孫を残しにくいためか見かけることが最近はずっと少なくなりましたが、欧米では社会的に立派に認知された存在で、舞台や映画でも活躍しています。あの「スターウォーズ・ジェダイの帰還」で大活躍するイゥォーク族の面々も小人俳優たちが着ぐるみの中に入って演じているのです。

閑話休題。とにかくこの「巨人力士碑」の前に立って、かつての巨人たちのでっかさを実感してください。彼らの活躍した時代、貧しかった農村生まれの巨人の姿、が浮かんでくるかもしれません。

(この記事は2005年に書かれたものです)

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