第十四回 「芸者島次の心意気・志満寿ざくらの碑」

皆さん、「芸者遊び」ってしたことありますか?いやかくいうこのわたくし其角主人も、深川っ子の端くれ、「最後の辰巳芸者」玉奴ねえさんのお座敷の隅っこで「芸者遊び」を体験したことがあります。三味線に太鼓が入ってにぎやかなお座敷で、芸者さんが踊り、そのほか、いろいろなお座敷遊びをするわけです。ただね、正直申しまして、小唄のひとつくらいは謡えるとか、お座敷遊びのひとつも知ってるとかしないと、まあ、おろおろするばかりで、何が楽しいんだかよくわからないまま終わってしまいます。まだ若かった頃なので、右も左もわからないまま、「芸者遊び」はお開きとなってしまいました。その後、何度か、それらしき遊びは体験しましたが、まあ「よくわからなかった」が正直な感想です。不調法、じゃあなかなか遊べない世界であります。 深川といえば「辰巳芸者」です。気っぷのよさが売り物で、芸者だてらに羽織をはおり、「芸は売っても体は売らない」芸者だったそうです。逆に言うと、芸者も普通は「枕芸者」と呼ばれる、「体を売る」芸者が多かったってことでしょうね。戦前まで、「割烹」というと、個室の座敷で飲み食いして、ふすまをガラッと開けると、真っ赤な夜具が延べてあって、という時代劇でおなじみのパターンが普通だったようで、だから「辰巳芸者」の「体は売らない」という心意気は、とても受けたんでしようね。

辰巳芸者も、絶滅しました。私が子供の頃は、近所に料亭が沢山ありました。永代通りの一本大横川よりの裏通りが料亭街でして、そこの座敷に上がる芸者さんたちが、よく歩いてました。しかし、そこの上客だった「木場の材木問屋の旦那衆」が、木場の移転やら、問屋の会社化やらで、すっかり芸者遊びをしなくなり、木場の材木問屋の財力に寄りかかっていた深川の料亭街は、あっという間に火が消え、それにともなって、辰巳芸者も絶滅してしまったのです。政治家やら企業の接待で生き残った新橋、赤坂、神楽坂あたりとは、そこが違うところです。

志満寿(しまず)さくらの碑

深川不動尊に、芸者の建てた碑があります。ここまでの話の流れだと、辰巳芸者であって欲しいのですが、残念ながら新橋芸者の碑です。場所は、以前に紹介した「五世尾上菊五郎の碑」のすぐ隣です。このあたりには、大きな石碑が沢山建っていて、木も少しだけうっそうとしているので、私が子供の頃には、この石碑の裏あたりを秘密基地にしたり、缶けりの隠れ場所にしたものであります。今でも夏には子供と蝉採りする場所です。

この石碑の寄贈者は、新橋芸者の「若菜屋島次」というひとです。明治十三年に建てられたそうですから、この後ろの玉垣と同じくらい古い。後ろの碑文を書いたのは、明治の文学者、仮名垣魯文ですから、力の入った由緒正しい石碑です。碑文によりますと、この島次というひとは、有名な画家らしき一松斎芳宗という人の娘で、三味線は新橋一うまく、慈悲と信仰に厚く、上野の養育院にお金を寄付したり、お不動様を信心して、お不動様の境内に桜の樹数十本を寄付したりしているそうです。 このさくらがが碑文おもての「志満寿さくら」なんでしようね。

碑文のアップ。「新橋芸妓 若菜屋島次」とあります

しかし、疑問だらけです。だいいち、そんな有名な画家の娘が芸者になるわけがない。上野の養育院(孤児院、でしょうね)に寄付をするくらいだから、彼女自身孤児だったんじゃないでしょうかね。何らかの形で画家の家に養子にはいった。うーん、それもありそうに無いな、芸者として有名になってから養子になったとか、さもなくば、親の画家が幕末から明治の混乱で、実は食い詰めていたとか。わかりません。

それにですね、上野の養育院にお金を寄付したり、お不動様の境内に桜の樹を数十本も寄付したり、そんなに芸者が儲かるはずがありません。芸者という商売も、置屋とかに持っていかれるお金も大きいですから、結局のところ、旦那、というパトロンあってのもので、それでも着物を買ってもらたり、家をもらったりするのが精一杯で、なかなか、大金を寄付するまでにはいかないのが普通です。そのなけなしの中から、寄付をした、というところが美談なんでしょうけれど。

それに、お不動様の境内に、数十株もの桜を植える場所があったかどうか、今でもお不動様には、沢山の桜の木がありますが、数十本はありません。それに、「歌仙桜」は有名ですが、「志満寿さくら」というのは、資料には全く登場しません。それに、この石碑が出来た当時は、深川不動が出来たばかりですから、当然、桜は寄付したばかりだったわけですから、まだ深川名物として有名だったとは思えません。その「志満寿さくら」の碑がなぜ建てられたのか。

そして、最大の疑問は、明治十三年、深川不動が出来たばかり、そしてお不動様は絶大な信心を集めていた、その時代に、芸者が石碑を建てることが出来た、ということです。なんせ当時の団十郎や菊五郎だって、柱の一本、石の一つに名前が刻まれているだけ、料亭や遊郭だって、日清戦争勝利記念の燈明台でやっと名前が入った、そんな時代に、芸者が自分の名前の石碑を、境内に建立できた、というのは、はっきりいって大きな謎です。だって、桜の木を寄付しただけでなく、かなりの額の寄進をしなければ、石碑は建てられないと思いませんか?この島次、という女性には、かなり大金持ち、または貴族かなかにの著名なパトロンがいて、なおかつ、彼女自身がすごく有名なカリスマ芸者でもないと、全く不可能な話です。

ですから、やはり、パトロンはともかく、島次自身、心意気のある芸者としてとても有名だったんでしょうね。芸者島次は、多分新聞に載るくらいの、大変有名な芸者で、この碑が建ったのも、実は当時、大きな話題になったのかもしれません。でないと、この石碑が建てられた理由は説明できません。

歌沢芝金の碑。なんか小唄の流派の家元みたいです

そのほか、下の写真は、「しまずさくらの碑」のとなりの、「歌沢節」という小唄のようなものの流派の家元「三世歌沢芝金の碑」というものです。大正六年に建てられたものだそうです。この三世芝金というひとにも、有力なお金持ちの門人がいて、この人の力で、この碑は建ったようです。

このほか、写真はありませんが、この並びには、華道の古流の家元の碑とか、そういう碑が立ち並んでいます。いずれも、有力者とか、コネと金の力で立った石碑、みたいですね。なんていうと、失礼か。とりあえず、子孫にも忘れ去られた石碑、ということではないようで、これらの石碑の周りには、子孫の歌沢節の人たちや、古流のかたがたの奉納した、玉垣がめぐっています。それはともかく、いつもは静かに、蝉時雨の中にただずんでいます。

そんななかでも、この「志満寿さくらの碑」はとりわけてユニークです。ぜひ、じっくりとご覧になってみてください。

(この記事は2006年に書かれたものです。碑は現存しません)

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