第十五回 「永代寺の謎・消えた永代寺」

「永代寺」全景

さて、お不動様の次は、お不動様の参道、其角せんべいの目の前にある「永代寺」です。はっきりいって、小さなお寺です。この小さなお寺には、しかし、語りだすと止まらなくなるくらい、たくさんの「謎」が秘められているのです。 第一回の「富岡八幡宮」の回でお話しましたが、富岡八幡宮は、江戸時代、長盛法印というお坊さんによって、砂村の八幡宮がこちらに移されて創建されたものです。そして、その「別当」寺として永代寺は創建されました。まあ、要するに、神社とお寺が合体していた当時の習慣に倣ったのでしょう。永代寺は、広大な寺域をほこり、京都の仁和寺の直系の寺として、江戸を言うに及ばず、関東でも格の高いお寺でありました。古地図を見ますと、このあたり一体は、「永代寺門前町」と書かれています。がしかし、「江戸名所図絵」には、江戸の風物詩だった「永代寺庭園」の山開きは「深川八幡山開き」、と書かれていますし、江戸の庶民に名前の通っていたのは、永代寺より、八幡宮の方であったようです。永代寺、の名前は、実際、あまり江戸の文献では見かけないようです。

小さいお寺ですが、いつも参拝の方の絶えることのない、永代寺境内。

よく、永代寺の門前で、深川観光ツアーの案内人の方が、「永代橋も永代通りも、この永代寺から名前が来てるんですよ。それくらいおっきいお寺だったんですよー」とやっていますが、それは俗説で、このあたりを「永代島」と呼んでいたから「永代寺」であり「永代橋」なんで、その辺はお間違いなく。

この永代寺は、明治時代の「廃仏毀釈」運動によって、廃寺となります。なくなっちゃったわけです。しかし、これは知られていない事実ですが、廃寺になったときの永代寺の住職、この人は、八幡宮と永代寺を興した長盛法印の子孫(かどうかはわかりません、とにかく歴代の住職)で、周徹という人なのですが、この人は、永代寺が廃寺になったあと、そのまま八幡宮の宮司、富岡宥永となっているのです。びっくりでしょ?現在の富岡八幡宮の宮司も富岡姓の方ですから、現在の八幡宮の宮司は、永代寺を興した長盛法印の子孫で、ずっとお坊さんだったのが、明治になって八幡宮の宮司になった、と思われます。第一回でもお話したとおり、廃寺になった永代寺の土地は、八幡宮がそのまま引き継ぎました。寺はなくなり、其角のような店とか家とかになったわけですが、いまでも私どもの地主は八幡宮です。ですからね、永代寺が廃寺になっても、永代寺の住持であった周徹は、何も失わず、何の損もしなかったのです。

永代寺の入り口に大きく立つ「厄除弘法大師」の石板。お不動様と同じ真言密教です。

なんでそのようなことが可能だったのか。そもそも、八幡宮の実権を握り、八幡宮の実質オーナーだったのが「永代寺」だったのでしょう。そもそも八幡宮を創建した長盛法印の子孫(だと思われる人々)が永代寺の住持であり続けたようなので、それは、ありそうな話です。

いくら「廃仏毀釈」だからって、永代寺のような大きなお寺がすんなり消滅してしまうのには、わたしは今までとても違和感を覚えていました。しかし、八幡宮の実質オーナーであった永代寺の住職が、八幡宮の宮司に横滑りし、土地もそのまま貰い受けた、となると、その謎は解けます。そこには、永代寺住職と、時の明治政府の間に、なにか密約というか、取引があったのでしょう。永代寺は実質何の損もしない代わり、政府の進める「廃仏毀釈」運動のシンボルとして、江戸の大寺院「永代寺」をつぶす、という取引。ほらね、これってまったく「永代寺の謎」でしょう?

それじゃあ、今ある永代寺ってなんなの?それはまた次の回。「永代寺の謎」はまだまだ続くのです。

(この記事は2006年に書かれたものです。)

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