第十七回 「永代寺の謎・失われた玉垣から」

永代寺の新しい玉垣。下の石の部分が、古いもので、三段目から 上は壊されて、新しく竹の玉垣になった。

現在の永代寺の、向かって左側の道路沿いに、竹作りの涼しげな塀、「玉垣」があります。これは、数年前に建て替えられたものです。もともとは、奉納者の名前を刻んだ石が積み上げられた形の玉垣で、下の写真の下部、石造りの部分が古いもので、全て石造りでした。石塀の下から二段目までが残され、それから上は取り壊されて、竹垣に造りかえられたのです。造りかえられたのは、耐震上の理由、とのことでした。 古い玉垣が取り壊される前に、写真を撮っておくべきでした。この永代寺の古い玉垣については、全く資料が無く、江東区の文化財資料にも載っておりません。ですから、いつ作られたのかも全くわかりません。お寺の方もご存じないのではないでしょうか。ただ、かなり古いものであることは、間違いありません。現在は、かろうじて残されて現存する石造りの下の部分の碑文から、この玉垣が作られた歴史を想像するしかありません。

高橋楼 青木七 女性でしょうか

信亀楼 山本辯作 名前の方が大きい、というのがポイントです。

大八楼 村松さち 女性ですよね、おかみだったのか、お運びか、遊女か。

大勢楼 平岡源作

金王楼 佐藤悦二

水鴬楼内 高野タケ 伊藤ミワ 連名です。失われた残りの部分には、連名も多くあったように思います。

私の記憶では、失われた玉垣の上部、奉納者を刻んだ石の一番上のものには、「吉原三業組合」とありました。つまり、この失われた玉垣の石の一つ一つがすべて、多分、吉原の遊郭によって奉納されたものなのです。以前取り上げた、明治時代に作られた不動尊の「燈明台」にも「新吉原」や「洲崎」の遊郭の名前がありましたが、それと見比べてみると、楼の名前しか書かず、楼のある場所をいちいち書いていないこの玉垣の碑文からして、全部の奉納者が「吉原三業組合」の人たちであると見て、間違いなさそうです。 そして、永代寺の玉垣が、燈明台と著しく異なっているのが、奉納者の名前の書き方です。燈明台では、個人名は一切書かれず、店の名前が大きく書かれているのに対し、永代寺の玉垣では「○○楼」という店の名前を大きく出さず、店の名前はごく小さく、個人名を大きく書いてあることです。つまり、燈明台では、奉納者たちは遊郭の経営者で、あくまで店の宣伝として、目立つところに店の名前を大きく出したのに対し、永代寺の玉垣では、店の宣伝としてではなく、あくまで個人として、玉垣を奉納した、というわけなのです。

これは考えてみると、すごいことです。つまり、吉原の遊郭の人たちが大挙して、店の宣伝ではなく、あくまで個人としての信仰心から、玉垣の奉納に参加したのです。今残されている部分だけでも、奉納者の数はかなりになりますが、もともとあった玉垣の石の数は大変な数にのぼるわけで、それだけの人々が、純粋な信心からお金を出したわけですから、彼らに、どれだけ深く、この永代寺が信心され崇敬されていたか、想像に余りあるものがあります。

また、奉納者が、「○○楼」の主人や女将と思われる人ばかりではない、というのも驚くべき特徴です。右の写真の「水鶯楼内 高野タケ 伊藤ミワ」という連名の奉納者は、明らかに「水鶯楼」の主人ではなく、そこで働いている女性です。彼女らがお金持ちだったとは考えられませんから、働いて貯めたなけなしのお金から、奉納しているのです。私の記憶では、玉垣の失われた部分には、奉納者の名前として「松栄」など、明らかに遊女の名前と思われる名前もいくつかありました。遊女までもが、玉垣を奉納する、なんて、普通は考えられません。驚くべき信仰心です。

なぜ、この永代寺が、吉原の遊郭の人たちに、これだけの信心を集めていたのか、は残念ながら、いくら調べても、まったくわかりません。そもそも、この玉垣がいつ出来たのか、もよくわからないのですから。これもまた、「永代寺の謎」です。永代寺を訪れたなら、この玉垣の残された下部をぜひご覧になってみてください。当時の吉原の遊郭の人たちの、永代寺に寄せる厚い信仰心が伝わってきますよ。

(この記事は2006年に書かれたものです。)

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