第二十回 「日清・日露戦没者慰霊碑」

日露戦争の忠魂碑

またまた、石碑です。ずっとご紹介してきたお不動様のとなりに、深川公園があります。この公園は、今では普通の公園ですが、江戸の永代寺庭園の名残の公園なのだ、と毎度ご紹介してまいりましたが、この公園の一角に、実に大きな石碑が立っています。下の写真で見るとわかると思いますが、実にデカい。これで一枚岩、なわけですから、大変な価値のあるものです。しかし、これだけデカいわりには、注目度が低く、深川公園に遊びに来ている人で、まともにこの石碑の碑文を読んだことのある人は、いないんじゃないでしょうか。

石碑の裏。沢山の人の名前が刻まれています

石碑の表には、大きく、「明治37、8年役戦死者忠魂碑」とあります。明治37~38年にあったのは、日露戦争です。つまりこの石碑は、日露戦争で無くなった兵士の慰霊塔なのです。当時の深川区の有志によって建てられたらしいこの石碑の裏には、日露戦争で戦死した、深川区の出身の兵士の名前が刻まれています。刻まれている人の、軍の階級はたいていみんな一等卒か二等卒、みな、末端の一等兵とか二等兵として最戦線で戦い、戦死した人たちだったんでしよう。勲八等とか七等とかもらっている人も多く見受けられますが、まあ、もらったのは戦死後でしょうね、多分。死んでからもらっても・・・・・・・

題字は、澁澤榮一男爵。

 

題字は、あの澁澤榮一です。日銀や国鉄など、沢山の会社を創設した、実業界の巨人です。澁澤榮一は、深川の福住に長らく住んでいたようで、そんな縁で題字を書いたんでしょうね。この巨大な黒御影石らしき一枚岩、多分かなり高価であろうこの一枚岩の購入にも、澁澤は援助していたかもしれませんね。だって、有志で立てるには、この石碑は立派過ぎる。

日清戦争戦死者の慰霊碑。

巨大な石碑のとなりには、そこそこの大きさの石碑がもうひとつ立っています。こちらはもっと古く、日清戦争の戦死者の慰霊碑です。こちらは、裏の碑文に、明治29年建立と刻んであります。こちらは、兵士の名前のほか、戦死した場所と、所属部隊まで刻んであります。

戦死した場所までくわしく刻まれた石碑裏。

例えば、「明治28年4月16日 死干膨湖島陣中 陸軍歩兵少尉○○○○」といった風に刻まれています。ここで気づいたのですが、日清・日露戦争当時では、戦死した兵士の階級を特進させる、という慣習が無かったようですね。現在では、二階級特進が通例ですが。

日清、日露戦争は、日本が勝った戦争ですからね、戦死した兵士の慰霊碑も、戦争終了の翌年には、速やかに作られています。負けた戦争では、こういうのはなかなか、作られない、ということですね。でもまあ、死んでしまったら、勝った戦争も負けた戦争もありません。残された人々の悲しみだって、勝った戦争と負けた戦争で違いがあるわけでもありません。深川から出征し、異国の地で戦死してこの碑に名を刻まれたのは、一体どんなひとたちだったのでしょうか。私と同じ、せんべい屋とかもいたのかなあ。

でも、日清戦争と日露戦争の戦没者慰霊碑の大きさの、極端な違いを見ると、日清戦争の勝利に較べて、日露戦争の勝利後の熱狂の実に大きかったことがうかがえます。まあ、強国ロシアを打ち破ったわけですから、それもわかります。203高地の戦い、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃破、と華々しい戦果もありました。しかし、この戦勝に対する熱狂が、東郷平八郎や乃木希典の「軍神」としての神格化をもたらし(ほら、今でも東郷神社や乃木神社ってありますよね)、ひいてはそれが、「天皇による統帥権の干犯」という名目を振りかざした軍の暴走を招き、それが、第二次世界大戦で日本の「壊滅」をさしまねくわけです。そのように見ると、この慰霊碑の極端な立派さに、複雑な気分にもなります。

そんなことをいろいろ考えながら、この碑をじっくりと眺めてみてはいかがでしょう。

追伸:

この石碑の周りにある、大きな石は、しつこく言ってますとおり、江戸時代の「永代寺庭園」にあった石なんじゃないか、と、私は勝手に推測しております。庭園はなくなったけれど、庭園に置かれていた名石だけは、そのまま再利用した、ってのは、とってもありそうじゃないですか。

(この記事は2007年に書かれたものです)

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