第三十一回 「小津安二郎と深川・そして大野晋」

小津安二郎の映画を見たことがありますか?わたくし其角主人は、何本かビデオで見ました。「東京物語」とか、題名は忘れましたが、いろいろ。最初は静か過ぎて退屈なのですが、見ていくうちに、だんだんその独特の世界に引き込まれ、魅了されます。たいした事件は起きませんが、最後には、映画でしか得られない感動を覚えます。「やっぱりいい映画だよなあ」、見終わるといつもそう思う、それか小津映画だと思います。

その巨匠小津安二郎は、深川の生まれです。生地である深川二丁目には、上の写真の看板が建っています。清澄通り沿いの歩道のかたわらに、何の変哲もなくたっています。その解説によれば、深川二丁目の肥料問屋の息子に生まれた小津安二郎は、その後三重に引っ越しますが、二十歳で深川に戻り、今度は深川和倉町に住んで、松竹蒲田撮影所に入社し、映画監督としての道を歩き始めます。

小津安二郎の住んでいた深川和倉町の名前の由来となる「和倉橋」のあと。

わぐらばし、は、「椀倉」があったから、そういう名前がついたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は埋め立てられた川のあと。不粋に高速道路がそびえています。私が小学生のとき、ここは埋め立てられました。高度成長期、町の景観なんてどうでも良い時代でした。

深川和倉町は、今の深川不動尊の裏辺り、「和倉橋」のあったところ辺りです。ここで、小津は、映画監督としてのキャリアをスタートさせたのです。

ちなみに、不動尊参道の大スター、甘酒屋の清水のおばあちゃんは、この小津安二郎をご存知だそうで、「清水のきんつば」のファンでよく訪れた小津安二郎を「小津のおっちゃん」と呼んでいたそうです。さすが、ですね。

この解説では、小津映画では、下町人情が描かれていた、ということですが、確かに小津の映画にはそういう作品も多くあるのでしょうが、わたしたちのよく知っている小津映画というのは、山の手の中流家庭を描いたものが多いように思えます。笠智衆が帽子をかぶった勤め人で、原節子が娘、という設定、そもそも、原節子って、下町娘には見えませんものね。ほかにも、例えば「東京物語」の原節子も、下町、という感じはありませんよね。小津は、深川出身の下町っ子であり、ふるさと深川を愛し、住み続けた人であるのですが、彼の代表作に描かれているのは、山の手の中流家庭、といったイメージがあります。

当時の下町と山の手って、どれくらい違ったのでしょう。先日亡くなられた日本語学の泰斗、大野晋は、その自伝的エッセー「日本語と私」(朝日新聞社)で次のように述べています。大野晋も、深川生まれ、永代通り沿いの砂糖問屋の息子であったそうです。当時の深川の商家の、近所に寄席のあるような、にぎやかで四季折々の風情がある生活。身近に芸者衆がいて、粋を重んじ、子供心にもそういう粋さがわかるような生活。それに比べて、初めて訪れた山の手の学友の家、クリーム・シチューを食べ、ガラスの入った本棚に英語の本が並ぶ生活。庭に築山があり、ライカの写真機がある生活。その豊かさと心の余裕、自分の住んでいる下町の生活とのあまり違いに、大野晋は驚愕し、コンプレックスを抱きます。そして、下町とは比較にならないほど勉学優秀な生徒たち、下町では優等生だった大野晋も全く太刀打ちできず、打ちのめされた、とこの本には書いてあります。そしてその強いコンプレックスが、下町の人間として、山の手の生活を知りたい、という気持ちにつながり、そしてそれが、長じて日本人としてヨーロッパの生活文化を知りたい、という気持ちにつながり、そのためにはまず日本のことを知らなければならない、その気持ちが、大野晋を日本語学へと進ませた、と、この本では述べられています。偉大な国語学者であり、そのわくをはるかに超えた言語学者であった大野晋を、その研究に向かわせたのは、もともとは、下町の人間の山の手の人間への憧れとコンプレックスであった、と、この「日本語と私」には書かれています。

大野晋は、小津安二郎より17才ほど年下に当たりますが、小津の時代には、大野晋の時代よりもっと、下町と山の手の違いは大きかったでしょう。深川で子供時代を過ごし、長じてふるさと深川に帰ってきた小津にとっても、「山の手の生活」は驚くべきものであった、と想像できます。そもそもわたくし其角主人が、昭和50年代に、深川の公立小学校から、山の手の私立の中学校に進んだ時だって、やっぱりかなりの驚きがありました。友達の家には「全然見たことのない生活」がありましたから。テレビのドラマでやってるのは作り事じゃなかったんだって、初めてわかったくらいですから。

古石場にある、その名も「小津橋」小津安二郎にちなんで付けられた・・・・・わけではないようです。

限りなく美しい原節子を中心に据えて小津の描いた「山の手の中流家庭」の生活には、大野晋の抱いたような驚愕とコンプレックスが、色濃く反映されているのではないか、私にはそう思えてなりません。小津映画のあの静寂は、喧騒の下町深川と正反対のものを描こうとしたからなのではないか、そうとさえ思えます。深川に生まれ、深川を愛した小津安二郎は、そうであるからこそ、深川の下町的なものとは全く異質の、彼の思い描く理想の山の手的なものを描こうとしたのではないか、そんなふうに私は考えます。故郷である下町深川を愛するからこそ、また、下町的なものを嫌い、山の手的なものを描こうとする。小津安二郎には、そんな人間であったのではないか。そんな風に考えるのは、私自身にも、完全に下町風にはなりたくないという、そんなところがあるからかもしれません。

小津橋の上。典型的な深川のまち、の眺めかもしれません。

こんなことを書いていたら、また小津映画を見たくなりました。小津の深川、なにか近いような遠いような・・・・・

先日亡くなられた、偉大なる日本語学者・大野晋先生には、わたくしも大学で、その授業やゼミの末席に座らせていただき、教えを受けたことがあります。わたしなども何度も叱られた、有名な厳しい指導を通して、学問とはどんなものであるか、それがどんな素晴らしいものであるか、その入り口を、先生は私たちに見せてくれました。わたしが、学問というものに尊敬の念を抱き、その世界のなにがしかを少しでも知ってみたい、と考えて読書などするのも、先生の指導のおかげです。ここで紹介した「日本語と私」(朝日新聞社)を読んで、その厳しい指導が、恩師への敬愛と感謝に由来することをはじめて知りました。また、大野晋という人が、私の同じ深川の人間で、下町への強く、また錯綜した感情を抱いていることにも、驚きを覚えました。

また、大野晋は国語学者であるとともに、素晴らしい美文家でもあります。「日本語と私」の簡潔にして味わい深い文章は、多くの方に読んで味わっていただきたいものだと思います。

大学を卒業してから、一度だけ、大野先生とお話しする機会があり、その時、わたしが深川の人間だと知ると、大野先生はしきりと、ご自分の生家の砂糖問屋のことを私に尋ねられました。戦前のこととて、何もわかることはなく、先生はとても残念そうでした。わたしもその「砂糖問屋」について調べてみよう、などと思ううちに月日はたち、唯一の手がかりを持っていそうだった、戦前には永代で砂糖問屋をやっていたという砂糖屋の大旦那は先年亡くなってしまいました。先生に、生家の砂糖屋のことを調べてご報告したら、さぞかし喜ばれるだろうな、と思いつつ、先延ばしにしていたのが悔やまれます。もう一度、何か調べてみよう、とは思っていますが、どうなるか・・・・

今は埋め立てられて遊歩道になっている小津橋の下の川。でも、静かで、ちいさな水辺があって、和みのスポットです。この和みが、かつての深川の雰囲気を残しているのかもしれません。

(この記事は2008年に書かれたものです。清水のきんつば、は現存しません)

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です